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キャリアアンカーという、自分の錨 〜シャインに学ぶ
かず / Kazu |
Tuningの最初の記事で、私は少しだけ「錨」という言葉に触れた。
やりたいことは、風向きによって変わっていい。ただ、その根元にある「大切にしたいこと」は、意外なほど変わらない。そんな話をした。ただし、より正確に言えば、「変わらない」というより「変わりにくい」と言う方が近いのかもしれない。この錨という言葉は、私が思いついたものではなく、経営学・組織心理学の分野で語られてきた、れっきとした理論に由来している。
今日のÉtudesでは、その理論そのものを、少し丁寧になぞってみたいと思う。練習曲を弾くように、一つひとつの音を確かめながら。
エドガー・シャインという人
キャリアアンカーという概念を提唱したのは、アメリカの経営学者エドガー・シャインだ。組織心理学の分野で長く研究を続け、キャリアだけでなく、組織文化や人材開発の領域にも大きな足跡を残した人物として知られている。
シャインは、多くの社会人を対象にした長期的な追跡調査から、ひとつの興味深い事実に気づいた。人は、キャリアの中でさまざまな経験を積み、役割や環境を変えていく。しかしその過程で、自分でも意識していない「これだけは手放したくない」という核のようなものが、一貫して存在し続けている。
シャインは、この核を「キャリア・アンカー」と名づけた。船の錨(アンカー)のように、どれだけ海が荒れても、船をどこか一点に繋ぎとめておく存在。それが、キャリア・アンカーという言葉に込められた意味だ。
8つのアンカー
シャインは、キャリア・アンカーを大きく8つに整理した。すべてを兼ね備えている人はまずいない。多くの場合、その人の中でいくつかが重なり合いながら、ひとつかふたつが特に強く根を張っている。
専門・職能的コンピタンス:ある分野の専門性を深め、その道のプロフェッショナルであり続けたいという欲求。
全般管理コンピタンス:組織全体を見渡し、責任ある立場でマネジメントに携わりたいという欲求。
自律・独立:自分のやり方、自分のペースで物事を進めたいという欲求。組織のルールに縛られることを窮屈に感じやすい。
保障・安定:先の見通しが立つ、安定した環境の中で力を発揮したいという欲求。
起業家的創造性:何もないところから、新しいものを生み出すことに強い喜びを感じる欲求。
奉仕・社会貢献:誰かの役に立つこと、社会に意味のある貢献をすることを、何より大切にしたいという欲求。
純粋な挑戦:困難な課題そのものに惹かれ、解けない問題を解くことに喜びを見出す欲求。
生活様式:仕事と、家庭や個人の暮らしとの調和を、何よりも優先したいという欲求。
こうして並べてみると、どれも「良い・悪い」で語れるものではないことがわかる。安定を求めることも、挑戦を求めることも、それぞれに等しく価値がある。優劣ではなく、ただ「自分がどこに根を張っているか」の違いに過ぎない。
アンカーは、変わるものか、変わらないものか
ここで、ひとつ興味深い問いが生まれる。キャリア・アンカーは、生涯を通じて変わらないものなのだろうか。
シャインの研究では、キャリア・アンカーは20代の終わりから30代にかけて、実際の職業経験を積む中で徐々に形づくられ、いったん定まると比較的安定して持続しやすいと位置づけられている。日々の気分や、目の前の仕事の内容によって、コロコロと入れ替わるようなものではない、ということだ。
とはいえ、「安定しやすい」ことと「生涯変わらない」ことは、同じではない。転職や育児、健康をめぐる出来事など、大きなライフイベントを経て、何を優先するかの順番が入れ替わることはある。転機の前後でアンカーがどう変わるのかを追った研究もある。
私自身が、まさにそうだった。30代までの私にとって大切だったのは、新しいことを始めること、誰かや社会の役に立つこと、そして難しいことに挑むことだった。シャインの8つに当てはめるなら、起業家的創造性、奉仕・社会貢献、純粋な挑戦に近い。ところが40歳を過ぎたころから、健康を何より大切に考えるようになり、気づけば、保障・安定や生活様式の方が、自分にとって重い意味を持つようになっていた。
どちらが正しい、という話ではない。置かれた状況が変わる中で、錨を下ろす場所が変わった。そう捉えるのが、いちばんしっくりくる。
アンカー自体は、ゆっくりとしか変わらない。それでも、状況が大きく動いたとき、私たちは「いまの自分が本当に手放せないものは何か」を、あらためて突きつけられる。転機は、アンカーが見えてくる瞬間であり、同時に、アンカーが動く瞬間でもある。
だからこそ、アンカーは、一度診断して終わりにするものではないのだと思う。異動、転職、独立、結婚、育児、定年、そして健康の変化。節目のたびに、「いま、私の錨はどこに下ろされているのだろうか」と点検し直すこと。それが、この理論のいちばん実践的な使い方ではないだろうか。
自分のアンカーを見つける、いくつかの問い
キャリア・アンカーを見つける方法として、シャイン自身は詳細なワークシートやインタビューの手法を紹介している。ここでは、その入り口として使える、いくつかの問いを置いておきたい。
これまでのキャリアで、「これだけは譲れない」と感じた場面はどこだったか。
逆に、「これを失うくらいなら、この仕事を辞めてもいい」と感じたことはあったか。
昇進や異動の話が出たとき、心の中で真っ先に浮かんだ懸念は何だったか。
もし今の仕事のやり方を完全に自由に選べるとしたら、何を一番変えたいか。
5年前、10年前の自分が大切にしていたことと、いまの自分が大切にしていることは、同じだろうか。違うとしたら、何がきっかけで変わったのだろうか。
これらの問いに答えていくと、自分がどのアンカーに近いところにいるのか、少しずつ輪郭が見えてくる。ただし、一度の内省ですっきりと結論が出るものでもない。エチュードがそうであるように、何度も問い直すことで、少しずつ音が澄んでいく。
理論を学ぶということ
キャリア・アンカーという枠組みを知っていると、自分や、自分の周りの人を理解するときの解像度が、少しだけ上がる。
「なぜあの人は、安定した大企業を辞めて独立したのだろう」 「なぜ自分は、裁量の大きい仕事よりも、決められた手順のある仕事の方が安心するのだろう」
理論は、こうした問いに万能の答えを与えてくれるわけではない。だが、自分や他者の選択を、単純な「良い・悪い」ではなく、「その人がどこに錨を下ろしているのか」という視点で眺め直す助けにはなってくれる。
これが、私がキャリア理論を学び続けている理由のひとつだ。理論は、地図であり、鏡でもある。自分がいまどこにいて、何を大切にしてきたのかを、静かに映し出してくれる。
最後に、錨について、もう少しだけ書いておきたい。
錨と聞くと、船を動けなくするものを思い浮かべるかもしれない。しかし、嵐の夜に錨を下ろした船は、ただ固まっているわけではない。無理に前へ進もうとはせず、その場にとどまって、嵐が過ぎるのを待つ。そのとき船は、錨を中心に、風や波の向きに合わせて、ゆっくりと向きを変えながら揺れている。揺れそのものをなくすことはできない。それでも、錨がしっかりと効いている限り、船は流されて、岩場に打ち上げられることはない。
キャリアの嵐も、同じだと思う。転機、環境の変化、先の見えない迷い。そんなとき、無理に進路を決めなくていい。迷いや揺らぎを抱えたまま、いったん立ち止まって待っていられるのは、「これだけは手放さない」という一点があるからだ。
そして、嵐が過ぎて季節が変われば、錨を上げて、別の場所に下ろし直してもいい。30代のころとは違う場所に、いま私が錨を下ろしているように。
キャリア・アンカーは、私たちを縛るものではない。揺れながらも流されず、必要なときには下ろす場所を選び直すための、静かな支えなのだと思う。
かず / Kazu キャリアコンサルタント